業界を革新する
大阪西成の、宿代二千円もしないビジネスホテルから、
毎朝、マイクロバスに便乗して兵庫県三田市に通っていた。
そこで道路建設の日雇い人夫として働く二十歳の私に、
ホテルのフロントを通して電話があったのは、ある冬の晩のことである。
「中島くん。京都の店に決まったから」
新聞育英奨学生としての配置先を告げる、担当者からの電話であった。
脳神経外科医を夢見た
大学受験に失敗し、
新聞育英奨学生として京都に出、
私は志望校への再受験を志した。
しかしそこで見たものは、
販売店を食い物にして、自堕落に毎日を無為に生きる
新聞営業員の姿であった。
妻子には去られ、クルマも家も失って、借金ばかりを新たに重ね、
嘘ばかりをついて生きる者が大勢いて、
しかし新聞は、このような者達を頼らなければ、
その数を増やすことができない商品であった。
それから二十年を経て、
私は、新聞営業のさなかに居る。
この業界を革新するために…。
希望ある者達によって、この国に新聞を普及させるために…。